先日Twitterでこんなことを書いたら多くの方に読んで頂けたようで。
小学生の道徳で『白杖を持っている人が信号待ちをしています。どうしますか』という問題が出た。「困っていないなら何もしない」と答えたら教師から『思いやりの心が足りない』と言われ、同級生から『人でなし』と言われたことをふと思い出した。しかし今でも間違っていないと思う、自分の答えは。
— そーきさん (@souki_e) 7月 20, 2012
白杖を持った人が信号待ちをしていたらどうするか、という正解は「どうしたんですか?」と声をかけるらしい。道徳に正解も何もないだろう…と思うが。しかもどうしたんですか、って信号待ちしているんだろうよ。信号を待っている時点で外出できる能力があるんだから大丈夫だよなぁと思ったんだが。
— そーきさん (@souki_e) 7月 20, 2012
こうした問題については正解は無いと思っています。状況に応じて臨機応変に対応すれば良いですから。ただ親切の押しつけのように自分が良い気分になりたいからする、というのだけは避けたら良いのかなと思っています。
自分は両親が福祉関係の仕事をしていたので、幼少期から障害者(障がい者やチャレンジドとか言うべきとかあると思いますが今回はこれで統一します)が周りにいたので特殊だったのかなと今更ながらに思います。今となっては笑い話にされているのですが、車いすに乗っているおっちゃんは車いすバスケットのために乗っていると小学校に入るまでずっと思っていました。恐らく車いすバスケットの大会とか練習でよく会っていたからでしょうね。視覚障害の人とも何度も会いましたが、自宅内で会うことも多く『本当は目が見えてるんでしょ?』と言ったこともありました。あれは仕方ない、そう思っても。
そういう環境だったので、障害というよりは「そういう人」というとらえ方をしていました。今でもそうだ……とは完全に言い切れませんが、そうありたいと思っています。
話をツイートに戻しましょうか。
今でもこうした話が道徳の授業で使われているのかは分かりません。さすがに学校にはいないもので無理ですね。
障害者なのだら手助けをするべきだ、という意見があるとは思います。自分はそうは思っていません。なぜかと言えば困っていないことは自分でできることです。できることをこちらが援助してしてしまう、というのは親切ではないだろうと。余計なお世話ではないかと。そう思うのです。同時にそれはできないと思われている、見られていると思うでしょうし、自分であれば気分は悪いかなと考えます。それ故に「困っていないなら何もしない」というのが自分の方針です。困っているかどうかはぱっと見て分からないようであれば余裕がある時には暫く見ていますけどね。
もう一つは障害者だからといって何もかもができないわけではないという考えです。車いすで日常生活をしていると「歩けない」点に目が行きますが、移動はできます。移動ができるための車いすですから。視覚障害者は程度はあれどうっすらと光を感じることができる人もいます。それに音が聞こえます。それで方向を確認することだって出来ますし、白杖を使えば外出もできる人もいます。聴覚障害者は程度はあれ聞こえることもありますし、文字が読めます。筆談で会話ができますし、今はメールがあるので殆ど会話に支障がありません。
一度車いすの方と腕相撲をしたのですが、一瞬で決着が付きました。無理無理w 上腕が自分の太ももより太いんですよ。勝てるわけがない。視覚障害者とかくれんぼをしたら一発で見つかりました。音がしたって言われて。あれは隠れられない。 聴覚障害者とダンレボで遊んだ時は惨敗でした。スクロールする矢印が早くて見えないと言ったら『なんで?』と。視覚が違うんですね。
ええ、障害者と呼ばれる方々にこてんぱんにされてきました(´・ω・`)
それと車いすバスケットのルールを教えてもらったり、視覚障害者からは点字を教えてもらったり、聴覚障害者からは手話(日本語対応ではなく日本手話の方)を教えてもらったり、指点字なんかも教えてもらって練習相手にもってもらったりもしました。教えてもらったことの方が多いぐらいですね。まだ子どもでしたが対等に接してもらったことには今でも感謝しています。ありがたいことにこういう経験があり、障害者が健常者より下だの助けてあげるべき人たちとは思えません。
140字では話がまとめられないと思って珍しくこっちで真面目な話を書いてみました。
最後にですが、別にこれは障害者に限ったことではないと思います。障害の有無や種類に関係無く困っていたら声をかける、それで良いんじゃないだろうかと思います。むしろそういう社会になれば相当に生きやすいだろうなーと思っています。「困っていたらお互い様」で良いんじゃないですかね。